メキシコの旅 1987年12月25日~1988年1月7日

―ブエノス・ディアス!(こんにちは) 太陽と砂漠と遺跡の国、メキシコへようこそ。
―オイ、ケ・タル・エスタス?(やぁ、元気?)
メキシコの人たちはみんな陽気だ。1987年冬のメキシコ旅行の記録です。


メキシコ国境越え・ティファナ・マサトラン

ロサンゼルスまで飛行機で行き、そこからはすべてバスで移動した。国境の町ティファナはアメリカ人観光客で賑わっていた。ソンブレロ(メキシコの大きな帽子)をかぶったおじさん。銀製のアクセサリーをつけた女の子。でも一度メキシコに入るとそこは「インフレ・失業の国」だ。赤茶けた山の斜面にくっつくように建てられたバラック小屋に人々は生活している。人々は職を求めて賃金の高いアメリカへと国境を越えて出稼ぎに行く。一年間精一杯働き、クリスマス休暇に故郷へ、お金とアメリカで買った電気製品を一杯持って帰るのだ。私の乗ったバスはそういった出稼ぎ帰りのメキシコ人で満員だった。

ティファナを出てどのくらいたったのか、夜の8時すぎバスが急に止まり、乗客が全員荷物を持ってバスを降りだしたので私も同じようにカバンを持ってみんなの後について行くと、どうやら税関検査らしい。次々とカバンの中を検査され、関税を払わされている者もいた。私はすっかり焦ってしまったが、日本人だと分かるとフリーパスで何の検査もなしに通してくれた。途中2,3時間ことにトイレ休憩でバスが止まり、汚らしいバス停でコーヒーやパンなどを買ったりした。

やがて東の地平線あたりが白み始めるにつれ、自分がどんな場所を走っているかがわかってきた。なんとまわりはサボテンしか生えていない砂漠だった!そうするうちにバスは山道にはいるが、運転手は一向にスピードを落とそうともせずフルスピードで曲がりくねった山道をビュンビュンと飛ばして行くではないか。ジェットコースターよりおそろしい!


マサトラン・ケレタロ

2日目の昼過ぎにマサトランに到着。かつては避寒地のリゾートだったこの町も寂れてしまっている。翌日、バスまでに時間があったのでサーカスを見に行った。

メキシコのバスは1等と2等の2種類あり、その差は月とすっぽん。1等は指定席、冷暖房付。ところが、2等になるとたまに七面鳥を抱えた人が乗ってきたり、今では博物館行のボンネットバスだったりする。でもどちらのバスでも運転手が自分の好きな歌手のカセットテープを大きな音量で流して運転しているのが印象的だった。おかげですっかりメキシコ音楽のファンになってしまった。

マサトランからケレタロまでは間違って2等バスに乗ってしまった。冷房が壊れていて、夜中に凍ってしまいそうな冷たい風が出てきた。みんな「テンゴ・フリオ」「アセ・フリオ」(寒い、寒い)の連発だった。

ケレタロは石でできた古い水道橋が町の中心を横切っている古代ローマ時代の町のような坂の町だった。ケレタロ、メキシコ・シティーあたりは高原地帯で、標高も2000メートル以上あり慣れるまではちょっとした坂でも息切れしてしまう。また、この高原には昔アステカ文明、そしてテオティワカン文明などのインディオの文明が栄えた地でもあり、今なお多くの遺跡が残されている。彼らは太陽を神とし、太陽が毎日出てくるように、毎日ビラミッドの上の神殿に生贄を捧げ、その首をはねていたそうだ。そのインディオたちを征服したのが、1519年にやってきたスペイン人のコルテス一行だった。コルテスが最初に上陸したのがベラクルスの町で、そこから300人の兵士を引き連れ、山の彼方の都市テイティトランを目指した。途中たった300人のコルテス隊が何万人というメキシコ部隊を打ち破ったのだった。そして以後400年以上に亘ってメキシコはスペインの植民地になったのだった。


ベラクルス

ベラクルスあたりから気候は亜熱帯になり、周りの景色も砂漠から緑へと変わってきた。海岸では若者はサッカー、草野球ならぬ「砂」野球を楽しんでおり、通りにはマンゴ、パパイヤなどのフルーツをその場でジュースにしてくれる露店がたくさんあり、まるで夏のようだった。

ベラクルスでは大晦日の夜から元旦にかけて楽しい夜を過ごすことができた。噴水のある広場を囲んでホテルが建っており、私はそこに宿泊した。ホテルの一階はすべてレストランとバーになっており、夕方から広場の特設ステージでいろんなショーが行われ、またメキシコ特有のマリアッチという音楽のバンドがお客のリクエストに応えて次々と陽気な音楽を演奏していく。そのうち12月31日も終わりに近づくと子どもたちが、メキシコ人に愛されている歌「ラ・バンバ」を合唱し始め、いよいよ新しい年になると恋人同士が抱き合って新年を祝う姿がそこらあたりで見られた。


オアハカ

次の目的地オアハカで実は大変な目に合ってしまったのだった。メキシコのクリスマス休暇は1月2日に終わってしまうので、休暇を終えた人たちのUターンと、出稼ぎに出る人たちでバスも列車も飛行機も1月5日まで予約がっぱいだった。そんなこととは露知らず、私はどこへ行ってもメキシコ・シティーへ行く切符が買えず困ってしまった。早く帰らなければメキシコ・シティー発の飛行機に遅れてしまい日本へ帰れない。でも焦っても仕方ないのでサッカーの試合を見に行ったりした。バスのターミナルと列車の駅を歩いて何往復もしてやっとのことであるおばさんからバスの切符を買うことができ、バスでメキシコ・シティーへ行くことができた。もう疲れて疲れてぐったりして地下鉄に乗ると、今度はスリにお金を掏られて1万円も取れれてしまい踏んだり蹴ったり。でもここでへこたれてはダメと自分に言い聞かせて、テオティワカンのピラミッドなどを見てから何とか帰国することができたのだった。


私は、ほとんどスペイン語が話せなかったが、辞書を片手に悪戦苦闘し、やがて5日目くらいからタクシーの運転手と仲良くなり運賃をまけてもらったり、公園で老夫婦とメキシコのコインと10円を交換して国際交流もした。メキシコは確かに日本と比べれば貧しい国だが、そこに住んでいる人の心は決して貧しいことはなく、日本人を全く同じ魅力的な人たちばかりだった。

アディオス(さようなら)