任国外旅行その1 -ブルキナファソ編- 1991年4月5日~4月18日

ブルキナファソ地図―西アフリカ地図―

青年海外協力隊でガーナに派遣中、任国外旅行で隣国ブルキナファソとコートジボアールを訪れた時の記録です。20年以上前の旅行なのでデータ等は全く参考にならないかもしれません。写真はすべてリバーサルフィルムで撮影したものをスキャナーで読み取りました。

当時ガーナ隊員が任国外旅行で行くことができたのは、西アフリカの4か国(ブルキナファソ、コートジボアール、マリ)とイギリス本国だった。イギリスはこれからも行く機会があるだろうから、私は迷わずアフリカを選択した。

ところが、1991年1月に勃発した湾岸戦争の影響で任国外旅行自体が3月末まで中断となり、その上一番行きたかったマリ北部でトゥアレグ族の民族紛争が起こり、マリに入国禁止令が出てしまった。仕方がないので別の目的地を地図で探していたら、ブルキナファソ西部に「ゴロム・ゴロム(Gorom Gorom)」という面白い響きの地名を見つけた。

当時インターネットが一般に普及する前の時代で、ガーナにいる私にはゴロム・ゴロムの情報をまったく入手できなかった。それどころかブルキナファソの旅行自体の情報としては、英語の旅行本「Lonely Planet」シリーズの西アフリカ編くらいなものだった。

これまでブルキナファソへ行ったことのある隊員の話を参考にルートを決定。行きは時間稼ぎのため空路を選択。アビジャン経由で首都ワガドゥグーへ。その後バスでゴロム・ゴロムへ行き、再びワガドゥグーに戻り、鉄道でコートジボアールへ。そしてアビジャンから陸路でガーナへ帰るというルートだ。

16人いる同期隊員の中で、任国外旅行にアフリカを選んだのは私を含めてたったの3名!そのうち1名は湾岸戦争が始まる前に滑り込みでマリを旅行してすでに戻ってきていた。彼はパリ・ダカールラリーの日本人チームにも会ったそうだ。結局もう一人のH氏と一緒に旅行に出発した。


第1日目 4月5日 曇

朝8時5分、GH550便でコトカ・エアポートを出発。約45分でコートジボアールのアビジャン空港に到着。飛行機の座席はまさかの早い者順!ガーナSTCバスか「トロトロ」じゃあるまいし!本当にのんきな国だな!

アビジャンを30分遅れで出発。飛行機はそこからニジェールの首都ニアメ経由でブルキナ入国だ。ところが、その前にマリのバマコに行くらしい。憧れのマリに着陸しても機体から出ることはできなかった。結局ワガドゥグ-には夜10時15分に到着。乗り合いタクシーで市内に行き、案内してもらったホテルに投宿。(Hotel Central ダブル9500CFA)

補足:
両替のレートは米1ドル≒270CFA。当時1ドルが130円前後だったので、西アフリカの共同通貨CFA(「セーファー」)フランへの換算はおおよそ2分の1に円をつければよいだろう。すなわち、9500CFAだと約4500円といったところか


第2日目 4月6日 晴

朝食後、もっとましなホテルを探す。映画館Cine Burkina向かいのHotel Continentalがずっときれいで値段もましだったのでそこにした。(ダブル8000CFA)。

荷物を預けて市内を散策。ガーナの首都アクラよりずっとこちらの方が洒落ている店がたくさんある。やはり元フランス植民地だけあってスーパーではフランスパン、チーズ、ハム、ワインなどが豊富に売っていた。

昼食に現地食を食べようと思っていたら、ブルキナ人が話しかけてきたので案内してもらった。ガーナ流でいえば「チョップバー」っていう感じの食堂だ。「Le Maquis “La Capitale”」でチキン入りフートゥー、野菜スープ、マカロニとチキンスープを食べた。ガーナのフーフーのスープほど辛くなかった。食堂を案内してもらったMartin Travoreというおじさんだが、お礼に昼食とビールをおごってやったら図に乗って、怪我を治すのにお金を貸してくれと言ってしつこいので途中で走ってまいてきた。

ワガドゥグー市内はとにかく原付バイクがたくさん走っている。Peugeot P50やヤマハ、ホンダのカブに乗っていて、道路は埃っぽくて大変だ。

物価はほとんどガーナと変わらないが、品数が多い分ブルキナの勝かな?

夕食は街はずれのイタリア料理店(Restaurant Le Belvedere)にした。席がすべてテラスにある洒落た店で、特にサラダがおいしかった。


第3日目 4月7日 晴

朝は中央マーケットにあるケーキ屋「Gourmandise」でクロワッサン、ミートパイ、カフェオレを食べながら賑やかな通りを見ながら時間を過ごした。

昼食は前の日に出会ったJICA専門家にレストランでチキンをおごってもらった。

ホテルの向かいにある映画館で映画を見たがフランス語の吹き替えだったので内容がさっぱりわからなかった。映画館自体はFESPACO(ワガドゥグ全アフリカ映画祭)の会場用に建てられたものでなんとエアコンがきいている。おかげで風邪をひいてしまった。

夕食はホテルにある「Restaurant de la Paix」で取ったが、アルコール飲料を置いてなかったので街中の「Wassa Club」というバーへ行った。ライブバンドがあり、ガーナ生まれのミュージシャンと親しくなった。バンド名は「Supremeなんとか」で、ジュラ語で”Boys on Action”という意味らしい。因みにクラブの名前はハウサ語で”Playing Club”という意味だそうだ。ブルキナではボボ・ディウラッソからマリにかけてはジュラ語(Dioula)が、その他の地方ではモシ語(Mossi)とハウサ語(Hauza)が話されているそうだ。


第4日目 4月8日 晴

ホテルを郊外のHotel Pavillion Vertに移動。ファン付きダブルが6000CFA。

ブルキナ国内では写真撮影に許可証がいるそうなので観光局で取った。

気温が34℃。暑い!目薬まで温かくなっていた。

バスターミナルでGorom Gorom行きのバスを調べると月・水・土しか出ていないらしい。もう一泊必要になった。

日本人が経営するハンバーガー屋を発見。イトウさんという人で、話を聞きたかったが忙しそうで断られてしまった。


第5日目 4月9日 晴

疲れとエアコンの冷気で風邪をひいてしまった。夕方には熱が38.4°まで上がった。

夕食にレストランに向かっていたらH氏がショルダーバッグを二人乗りのバイクの連中に盗られてしまった。パスポート、カメラに全財産が入っていた。パスポートなしでこれ以上旅行を続きえることはできない。とりあえず警察署に行き盗難届を出したが盗られてものが戻ってくるわけではないのでこれからどうするか考えた。


第6日目 4月10日 晴

ガーナのJICA事務所と大使館に国際電話をして盗難のことを話した。私がパスポートを受け取りにガーナまで戻るということになった。しかし、ワガドゥグーから陸路でガーナに入りまたワガドゥグーに戻ってくるのはとても手間なので、Laissez-Passe(通行許可証)を発行してもらい、H氏本人がガーナに戻るという方法を試してみることにした。

ひったくり騒動のおかげでカンヌのグランプリを取ったブルキナファソの映画「Tilai」を見ることができた。映画館は満席で、ガーナとはまた違った観客の反応を楽しめた。


第7日目 4月11日 晴

まずDirection de Police General Sureteに行き、Laissez-Passeを発行してもらうことにした。写真3枚と収入印紙代1500CFAで、出来上がるのは夕方らしい。

その足でガーナ大使館へ行くと、ガーナへ入るにはビザが必要だと言う。手続きに4日。その上16000CFAもかかると言う。そんなに待っていられないので明日領事に会って頼むことにした。

ワガドゥグー最後の夜は先日行損ねたレストラン「L’eau Vive」に夕食に行った。もともと尼僧が始めたレストランだそうで、給仕もすべて尼僧だ。俺たちにはフィリピン人のウェイトレスがついてくれた。

料理は前菜もメインディッシュも最高に美味かった。午後9時半になると、ウェイトレスが全員でAve Mariaを合唱するのも素晴らしかった。イタリアンレストランと共にワガドゥグーお勧めのレストランだ。二人でワインも飲んで12000CFAだった。


第8日目 4月12日 晴

朝一でガーナ大使館に出向き領事に会って事情を説明。その場でビザを発行してもらえた。たまたまガーナ行のSTCバスが出る曜日だったので、大使館から電話を入れて座席を確保。これでどうにかH氏はガーナに無事戻れることになった。警察では英語が全く通じず、辞書片手にフランス語で交渉。大使館では協力隊の活動で培った度胸が役に立った。

夕方、モスクからコーランが響いてきて異国にいることを実感した。ワガドゥグーは決してきれいな街ではないが、なんか日本の都市にはない面白さがある。活気というか、生活感といったほうがいいのか、貧乏から金持ちまでみんな生きているなっていう感じがするのだ。

夕方JICAガーナ事務所から電話連絡があり、H氏が無事国境を越えてガーナに入国できたそうだ。これでひとまず安心してたびを続けられる。


第9日目 4月13日 晴

いよいよゴロム・ゴロムに向けて出発の日となった。朝6時起床。タクシーでX9バスターミナルへ。このターミナルはブルキナ国内すべてのバスの発着場になっている。ゴロム・ゴロム行きは週3便の朝8時発。とりあえず途中のドリ(Dori)という町で途中下車することにした。バス料金は3300CFA。バスはTATAの大型で、乗客はチケットを購入時に身分証明書の提示が必要らしい。チケットはすぐに売り切れるようなので少なくとも1時間半前には購入をしておいた方がいいみたいだ。

乗客のほとんどはブルキナ人の様で、外国人は俺のみだった。荷物は無料だった。

出発までスタンドのコーヒー屋で甘いコーヒーとバゲットを食べた。ガーナではまずおいしいフランスパンを売っていなかったのでブルキナが羨ましい。アクラから地方に買える人たちが食パンを買って帰るようにここではバゲットを土産に買って帰る人が多い。俺も真似をしてバゲットを3本買った。

ワガドゥグーを出発して最初の検問で早くも3人の乗客がバスを降ろされて取り調べを受けている。バスに乗車するときから係員ともめていた人たちだ。こんなことで時間を食ってしまうのがアフリカだ。

ワガドゥグーから90キロ北東の町カヤ(Kaya)の町はずれで昼食休憩。とにかく砂埃がすごい。舗装道路はワガドゥグーの近郊のみ。あとはサバンナの中をひたすら続く未舗装の道。建設ラッシュで途中迂回路(retour)ばかりでひどい有様だ。町に電気が通っていて冷えた(生ぬるい)ビールを飲むことができた。

午後3時半。ドリに到着。バスから降りると灼熱の地獄だった。北へ進むにつれてバオバブなどの大きな木が少なくなり、サヘルという感じの景色が広がってきた。

ホテルを探していたら、子どもたちが寄ってきた。泊まる場所がないか聞くと、Aubergeを教えてくれた。一泊2000CFA。カヤ葺の屋根の部屋にベッドがあるだけの宿だ。シャワーはもちろんバケツ。トイレは共同で詰まってつかえたもんじゃない。冷えたビールのみが救いだった。

夕方、ガスストーブでラーメンを作って腹ごしらえをしてからマーケットに行ってみた。店じまいをしているところだった。田舎では写真を取られるのに慣れていないのか、カメラを向けるとお金を要求してくる。

バーで一人でビールを飲んでいたら、軍人だという兄ちゃんが話しかけて来た。写真を撮ってやりいろいろと話をした。空手とテコンドーをやっているので柔道着がぜひほしいと言ってきた。日本に行きたい。連れて行ってくれ。いやはやガーナもブルキナも同じだ。


第10日目 4月14日 晴

それにしても暑い。土煉瓦の部屋の中で寝られたものじゃない。床にシーツをひいてドアをあけっぱなしで寝た。蚊はいなかったが、明け方になってモスクからの大音量のコーランには参ってしまった。

ゴロム・ゴロム行のバスというかローリー(ランドクルーザーピックアップ)の運賃はたった50キロの距離なのに1500CFAらしい。その上何人乗りこむつもりなのだろうか!

ランクルに乗り込んだのは朝7時だったのに、車が動き始めたのは9時すぎ。その上、あちらこちらに寄りながらで、結局市外の検問所を通過したのが10時半だった。検問所は2カ所あり、身分証明書の提示が必要だ。2つ目の検問所を過ぎた当たりで子連れの女性が乗り込んできた。確か朝に見かけた女性なのにどうしたのかと思えば、身分証明書がないので検問所を過ぎた当たりまで歩いて来て待っていたのだろう。何のための検問かわかりやしない!

ゴロム・ゴロムまで50キロくらいだとタカをくくっていたが大間違いだった。最初は道路も平坦で時速80キロくらいでとばせたのだが、そのうち干上がった沼地のようなデコボコ道になり屋根の上の荷物は落ちるは埃っぽいはで大変な悪路になった。それでも1時間くらいで町に着いたので到着かと思えば、ゴロム・ゴロム手前のエサカン(Essakan)という村だそうだ。

ゴロム・ゴロムまで行くというおじさんが、ここで車を乗り換えるんだと教えてくれた。親切にケバブをおごってくれた。ヨーグルト(1杯25CFA)もおいしかった。マンゴは一個50CFA。

エスカンを出発したのは結局午後2時半。車に乗り込んでから実際に走り出すまでとにかく時間がかかる。誰を待っているのか、ドライバーはのんびりとしている。

2時間は走ったかな。今度こそ着いたと思ったら違っていた。今度はゴゼ(Goze)という村。ここでは案外短い待ち時間で出発。確かトイレに行ったおじさんがまだ帰ってきていないのに出発してしまった。おじさんが追いかけて走ってくるのに振り切って行ってしまった!どういうことだ。その上空いた席に他を埋めるため別の客を道すがら探しているではないか!すでにランクルには屋根を含めて40人近く乗っている。バスじゃないんだぞ!これじゃ無事にゴロム・ゴロムに着けるのか!

もう着いたかと思えばまた違う村!方角的に西に向かっているということはかなり遠回りをしながら行っているということらしい。途中オアシスで休憩。水が本当にありがたい。

結局ゴロム・ゴロムに着いたのは夕方6時。この期に及んで警察署で外人登録をさせられた。警察官がパスポートの有効期限のことでいくら説明しても分かってくれない。(青年海外協力隊の隊員はその当時は公用旅券を持っていた)外務省も公用というくらいなら英語以外の言語でも記載しておいてくれと腹が立った。

やっとのことでホテルにチェックイン。ゴロム・ゴロム唯一のホテル(Campement Hotelier Gorom)は現地式の日干し煉瓦の壁でできていて、ベッドも土!蚊よけに蚊帳を張っていた。とりあえずビールをとバーに行ったら、冷えたビールがあるではないか!かつてはワガドゥグーから週2便飛行機が飛んでいたそうだ。ここゴロム・ゴロムはマリとニジェールの国境近くの主要や町ということだ。


第11日目 4月15日

昨夜は最高に寝苦しかった。窓が高い場所にあるので部屋に風が通らない。バケツの水に足を突っ込んでみたけど効果がないので、最後はベッドに水をまいたりしたが、その場しのぎって感じだ。いつ寝つけたのか覚えてもいない。

窓から外を見てびっくり。昨夜は周りが暗かったので分からなかったが、ゴロム・ゴロムはまさにサヘルの地だ。360°周囲はサバンナが広がっていた。

朝食にスープをガスストーブで作り、パンをかじった。ゴロム・ゴロムはたった2泊の予定。明日はラマダン明けだ。

町を散策してみたが、途中に寄ったエスカンやゴゼの方が規模としては大きいように思えた。ただ、ゴロム・ゴロムは政府や軍事関係の建物がたくさんあって、政府の北東の拠点としての機能を担っているようだ。この地方は鉱物資源も豊富で、マンガン・金・銅などが採れるそうだ。鉄道もワガドゥグーからここまで延びる計画があるとか。

マーケットは木曜に開かれるということで街は静かだった。ホテル近くの岩山に登ってみた。2、30メートルくらいの岩山だけど周りに何もないのでずっと先まで見渡すことができた。

再び街を散策。木陰で髪を編んでもらっている女性がいたので行ってみた。隣りで子連れの女性がミレット(キビの一種)を突いていた。突いた粉をお湯に入れてゾンコムという団子にして食べるそうだ。昨夜ホテルまで案内してくれた想念がたまたまやってきた。こんな時のために飴やビスケットを用意していて助かった。

5分も歩かないうちに町はずれに行きついた。引き返してわき道にそれるとゴザを丸くテントのようにして暮らしている家族がいたので中を見せてもらった。男性と奥さんらしき女性2人、母親、子ども4人がその中で暮らしていた。娘が足にビニールをかぶせているので何かと聞くと、この地方の女性がするお洒落の一つで足の裏に着けた土をのけると足が黒く染まるらしい。

スケッチをしたり、現地語(Peul)の会話を教えてもらったり、写真を撮ったりとした。主人はいろいろと気を遣ってくれたが、その主人が昼に外出して女性だけになると急に写真を撮ったので金をくれだの、もう少しビスケットはないのかだの厚かましくなった。場所変われど世の中同じだなと感じた時だった。

町を散策して疲れたのでホテルに戻り冷たいビールを飲んだ。ガスストーブで焼きそばを作って昼食に。ここではレストランもなさそうだ。

町を散策中にマーケットを見つけたが、売っているものと言えばトマト、オクラ、肉、タマリンド、バオバブの葉くらいなものだ。いったいここに住んでいる人たちは普段何を食べているのやら?あのテントで暮らす家族なんか家財道具も食器と寝具くらいなものだった。究極のシンプルライフだ!

夕食はあらかじめ注文していたのでシャワーを浴びてベッドでうとうとしていたらノックで起こされた。ビールは冷えていたが気が抜けていたので文句を言ったら交換してくれた。


第12日目 4月16日 晴

昨晩は風が全く吹かず、水をかぶっても効果がなかった。ようやく朝を迎えて部屋の外へ行くとびっくり。オランダ人の女性がビキニで中庭でシーツを敷いて寝ていた。ホテルの従業員も外で寝ていた。

ホテルの横のパン屋でパンを焼いていた。聞くと使うのは小麦粉、イースト、塩と水だけだそうだ。土で固めた釜戸の灰の熱を利用してトタン板にのせた生地を4本ずづ、一気に10枚焼いていた。

ゴロム・ゴロムからドリへはバスが出ていた。2日前に丸一日かったのがうそのようだ。たった1時間の快適ドライブだった。まぁ、あれはあれでブルキナの辺境地を見ることができたのでよかったか!

ドリから52キロ南の湖のはずれの村で休憩。ケバブを食べたら塩辛かった。死ぬほどのどが渇いて、あれほど冷えたビールがほしいと思ったのは初めてだった。

ワガドゥグーには夕方4時半に到着。そのまま列車でコートジボアールに向かおうとも思ったが、疲れていたのでHotel Independanceに泊まることにした。フロントのイブラヒムも元気に迎えてくれた。

ジーンズを10日ぶりに洗濯したら水が真っ黒になった。


第13日目 4月17日 晴

昨夜ものすごい雷雨があった。アフリカでは雨が降ると停電するのが常らしい。まぁすぐに復旧はしたのだが。これで歓喜も終わりかな?!

列車の時刻を確認したら、アビジャン行は朝7時半しかなかった。夕方の便はボボ・デュウラッソまでしか行かないみたいだ。これでまたワガドゥグーにもう一泊しなければならなくなった。


第14日目 4月18日 晴

朝6時半に駅に行くとアビジャン行の急行列車が構内に泊っていた。先頭に2両のディーゼル機関。その後ろが寝台車両、そして1等車両、そして2等車両が4両。寝台車両がひどくて、車両に入った途端小便の臭いが鼻を衝いてきた。奥に進むとあまりの汚さに閉口してしまった。隔日発車のGazetteの方がましだったのか?なんという不運だ!

ワガドゥグーを出て5時間半。もう少しでボボ・デュウラッソのはずだ。やはりここはビールでしょう、というわけで先頭車両まで行って生ビールを買い、サバンナの景色を見ながら乾杯。

結局ボボ・デュウラッソまで7時間かかった。ビールが回ってきていい気分で眠ってしまったら、暑くて目が覚めた。ボボ・デュウラッソの方がなんとなく街がきれいだ。

夕方6時15分にブルキナファソ最後の町ニャンゴロコ(Niangoloko)に到着。相席のあばちゃんが国境だと教えてくれて急いで出国手続きをすませた。ボボ・デュウラッソから次第に列車が混んできた。一等車両は二人掛けの座席がずらっとあるのだが、数カ所だけ向かい席になっていて、そこだと足を伸ばせていいのだが、わざわざ他がすいているのに横におばちゃんが座ってきた。まぁ、このおばちゃんのおかげで隣りに変なおっさんが来なくて済んでよかった。

コートジボアールに入国したら検察官がやってきて身分証明書と荷物を一つ一つチェック。俺は外国人なので形式のみだったけど、隣りの青年なんか荷物の中からラジオを没収されていた。7000CFAを払ってようやく返してもらえたと泣きながらその青年が返ってきた。

国境あたりから雷雨になってきて、窓の閉まらない座席は雨が吹き込んできて大変だった。座席の背もたれが垂直で寝づらい。ひじ掛けのビニールが破れて中の金属があたって痛い!対向車両は立派なのにどうしてこの一等車両はこんなにひどいのだ!


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